押野 高皇産霊神社 沿革碑 原文

  • 禰宜
  • 19 10月 2015
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平成27年 10月 11日

押野 高皇産霊神社 沿革碑建立

地域氏子崇敬者及び温かい支持を集める高皇産霊神社奉賛会等は、産土神として崇敬の念篤い当高皇産霊神社に由縁・沿革を綴った歴史碑が無い事を強く懸念していた。

これら積年の想いを受け、この年地域歴史家さんに神社沿革の詳細を深く知見して頂き、野々市市市役所をはじめ広く歴史文書収集を進め、地域識者のみならず広く公的機関の助力を得てこの度の沿革碑文書完成へとたどり着く事が出来たのです。

神社を通じて、押野という町の成り立ちがはっきりと描かれた今回の行事は、これからの街の発展に向けて必ずや素晴らしい試金石となる事は間違いなく、この深い歴史と強い絆を、これからも絶える事なく守り続けて頂けるよう祈ります。

高皇産霊神社 宮司

高皇産霊神社(たかみむすひじんじゃ)沿革

霊峰白山を源とする手取川の支流木呂川の清流に恵まれ、押野には周辺のどこよりも早く人々が居住した。そのことは、手取川扇状地では最も古い、今から四千年前の縄文式土器群が、大塚遺跡で発見されたことからうかがえる。大塚の地名は、明治初期まで古墳が残っていたことに由来し、古墳時代の押野は、豪族が居住した地でもあった。中世には、押野荘地頭富樫家喜の館が建ち、大野荘湊と白山本宮を結ぶ白山大道が通るなど、押野は、古くから人々の往来が盛んであった。

押野の旧社として中世の押野山王社が知られている。江戸中期には神明社・春日社・観音社の三社が存在し、後期に多聞天社・国常立社・比咩社と改められている。明治初期には高皇産霊社と清水社(後に清水神社に改称)の二社となり、現在の高皇産霊神社は、神社合祀令によってこれらを合祀して明治四十四年に建立したものである。

旧高皇産霊神社  祭神 高皇産霊尊

押野山王社は当社と伝えられ、押野西部の「宮様跡」と呼ばれる地に鎮座した。江戸期の神明社・多聞天社にあたり、押野南西部鎮座(現在の押野霊園辺り)の国常立社を合併したとみられる。

清水神社  祭神 天照大神

比咩社とも呼ばれ、前身は江戸中期の観音社とみられる。押野東部に鎮座し、門前の村民が「宮前」姓を名乗る由来になった。

押野居住の十村役後藤太兵衛(一六一四~一六七三)は、野田山麓に泉野村などの新しい村々を開き、長坂用水を開発した。同用水開発には、石川郡内の徒歩通勤圏内から延べ三十六万人が動員された。江戸初期の野田山や野田山麓は、持ち主の定まらない山地であったが、江戸中期に村々の飛び地に細分されたことを示す絵図がある。これらは、長坂用水などの開発に従事した村々へ、動員人数に応じて分譲が行われたものと考えられ、同図の三子牛地区に、押野の飛地として押野山が描かれている。

清水神社へ旧高皇産霊神社を合祀し高皇産霊神社に改称する事の許可を得た氏子の村民は、明治四十三年十月に共有地の押野山を売却した。その売却益と村民からの浄財とを合わせて建設費とし、新設したのが現在の高皇産霊神社であり、敷地は、後藤於菟吉が寄進した。村内の融和を図るため、社殿を集落の東側に置く代わりに、向きを西にしたことが伝わる。新築工事は明治四十三年末から開始し、翌年八月十八日に盛大に竣工慶賀祭を挙行した。

荘厳な現社殿は、押野地区が長年に亘って幾星霜を重ねて歩んだ歴史の象徴であり、長坂用水開発等に従事した押野村民の労苦の結晶でもある。

平成の大修復を完了したのを機に、町内の平和と安寧を祈念しつつ、ここに改めて神社沿革碑を建立して長く後世に伝え残すこととする。

平成二十七年十月十一日

高皇産霊神社 奉賛会


沿革碑 写真


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高皇産霊神社沿革

高皇産霊神社沿革(ふりがなつき)

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