太宰治は

「正義と微笑」でこんなことを書いていました。

学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!

「正義と微笑」( 太宰ミュージアムさんより抜粋)

だいたい世の中は無駄な学問で溢れているように見えるものですが、無駄かどうかを判断できるほど学問を修めていないともいえるからこそ、よく学び、よく遊べ、なんてことわざも出来るのでしょう。

そしてまた、子難しい言葉を連ねることで人の心の奥底に舐る増悪とも捉えられる粘着質な考えに捕らわれてしまう人々が多くいることも学問を修めることから目を背けてしまった人間の有り体なんだと、無駄で馬鹿げた学問を弛まず修めてきた人間達が心の底から安堵のため息と共に胸をなで下ろすことが出来るといえます。

さらに太宰は「愛と美について」の最後で、ある眼差しを描いています。

人々は喧喧諤諤多種多様に論じ合う事で、皆の学問に繋がり、どうでも良い日常が曲がりくねった長距離の滑り台を滑空する楽しさに繋がり、既知既得の知恵を持つからこそ無知蒙昧を自覚する驚愕に繋がってゆき、それら多くの人間をまた見守ることで年長者も歳に捕らわれず成長してゆくことになり、人生の終焉においてもなお人としての楽しみに興じることで若さを保ち続けていることになるのでしょう。

 

本日(7月14日)は、国造神社の歴史にとってとても重要な役割を担っていただいた方により、葬列を連ね故人への想い出をお話しする機会を与えてくださいました。

故人は常に、笑顔でいらっしゃいました。

困ったことが起きて真面目な話をした後も、また笑顔でいらっしゃいました。

巫女さんと昼食を同席してくださっていたときも、笑顔でいらっしゃいました。

そして、人間勉強が大切だとおっしゃっていらっしゃいました。

 

太宰のような感性を持った、しかし人間が大好きであった陽光が、この日雲間に紛れてしまいました。

 

通夜の後に、神社関係者揃って帰りの路につかず、席から立たず、さて帰るかとなってももう一度お焼香を上げに祭壇へ足を運び、「また、寂しくなりますね。」とこの別れを惜んだのです。

最上から一歩外に出ますと、ホールで多くの方が立ち止まり、故人の写真が映し出された動画に釘付けでした。

ああ、愛されるとは、こういうことでもあるのだな。

さみしさに喜びが重なる瞬間でした。

 

神社に足を運ぶこと

さて、神社に足を運ぶことでどういった学びがあるのでしょうか。

お参りに来たそれぞれ別々の方が境内での出会いから語学の上達があるようですが、希有な例であって現実的下はありません。

数学は、ちょっと難しかな。

理化学は自然学等への好奇心が、室内に居るときよりもきっと多く得られるでしょう。

道徳は町中どこでも考えられることですし、哲学は海辺の方がいいのかも知れません。

 

それでは、神社での学びの本質とは一体なんでしょうか。

それは、自分自身のお参りする姿から、過去の自身と未来の自身を比べ、変化に自ら気づくことから学ぶ、ということだと考えています。

そしてその「自らを学ぶ」とする学問は多くの方が無自覚に習得しており、特に神社や神棚の前でより良く洗練されるものでしょう。

明治天皇の御製にこのような一句があります。

「榊葉に かくる鏡をかがみにて 人もこころを みがけとぞ思ふ」

この句の表す通り、参拝に足を運ばれた方は自分の心を磨き、鏡のように曇り無く自らを振り返りましょう、と。

神社や神棚にかがみが奉られているのは、参拝する人間自らを映し、なぜ曇り無く鏡は人を映すのか。誰が磨いたのか。磨かれた鏡に映された人間自身の心には曇りが無いのか。磨かれた心が映し出す他者は、どの様に淀みなく己の中に取り込めるのか。

 

これらから、神社に足を運ぶことから得られる学問は、未来への道程と過去を素直に受け入れる心では無いかと考えます。

ということは、この学問の答えは、常に変化し続ける答えと決して変化しない答えが両立し、二つ以上の答えが矛盾しない学問と云うことになりますので、これまた難解且つ簡素な学問となるのでしょう。

 

そして最初に戻るのですが、太宰治の言葉を借りますと、

勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。

ということになります。

 

神社で学ぶ皆さんは、直接生活に役立ちはしなくとも学ぶ道を辞めないで欲しいのです。

 

 

さらにもう一つ。

神社仏閣参拝は、社会集団形成への第一歩とも言われます。

自分ではない誰かが大切に守っている社寺を他から引っ越してきた方が同じように守ることは、見ず知らずの他人であっても同じ方向に向かって社会を築く礎へとつながり、これが社会集団への参加の足がかりとなって地域社会の安寧に繋がってゆくと考えられています。

自分自身を省みることに加え、自分を見つめる他者の存在を顧み、お互いの平和に向けて足並みを揃えることが出来る場所。

 

と、面倒くさいことを考えながらお参りしておりますが、ご参拝いただく皆様に変わって無駄に思いを巡らせるのも神職の勤めであると考えておりますので、春日神社へご参拝の祭には無心でお参りください。

最後に、明治天皇御製をもう一句ご紹介です。

「さしのぼる 朝日のごとく さはやかに もたまほしきは こころなりけり」

今後も楽しく、ご参拝ください。