郷八幡神社(ごうはちまんじんじゃ)
GOUHACHIMAN shinto shrine
歴史とその変遷
当社は長久年間(西暦1040~1043年)の創建と伝えられています。
時は進み、明治初年に金沢・寺町の寺院の建築物を資材として拝殿を建立し、同4年には村社に指定されました。
また明治29年3月に、氏子総代が集まり従来の八幡神社の社名の変更を願い届け、同年4月13日に現在の「郷八幡神社」と改称するに至ったとされています。
その後、大正7年に本殿を改築し、昭和14年には神饌料供進神社の指定を受け、同年10月12日には弊殿の新築をみています。
昭和に入り、車社会の充実が進むにつれて、三日市の氏子衆を大きく揺るがせた都市計画事業に、金沢バイパスの着工があげられます。
昭和42年4月に着工されたこの事業により、町を大きく分断する国道8号線が昭和45年11月までの3年超の工期をもって行われることになります。(先ずは2車線道路敷設。)
国道8号線が通ることは近代化が急速に進むことともなり、稲穂が広く広がっていた景色を大きく変えることとなりましたが、神社への崇敬の念が衰えることは全くなく、村を挙げて支えてゆくために神社総代は替わらず当番制が継続され、若衆が祭りの準備を行うなど年代や男女の特技を生かした仕事の所役もゆったりと割り当てられて今に至ります。
その後長期にわたり社殿や境内は氏子集の手厚いお守りによって美しさを保ってはきていたましたが、長年の風雨には浸食を許すこととなり徐々にほころびていきました。
これを憂いて、昭和62年6月に、社殿の基礎の打ち直し、瓦屋根を銅板に葺き替え、鳥居を竣工しするという大工事を当時の氏子集が寄り添い、力を合わせて行うことができました。
この一大事業を皆で祝し、昭和62年6月21日には慶賀祭を賑やかに斎行されました。
平成28年には区画整理事業工事の完工を称え、椿の里公園に石碑が建てられました。
この石碑には、「愛郷」と刻まれており、この地を故郷としてきた方とこれからこの地を故郷として生活をされる方々が、共に明るく平和な地域社会を築いて行けるように、愛するさとをまた愛してゆく、という願いの元建立されました。
ご祭神
応神天皇(おうじんてんのう)
境内
境内地は奥行きのある長方形です。
境内内に三日市会館を有し、町の寄り合いの中心地となっています。
現在の社殿は、本殿を流造、拝殿を瓦葺入母屋造、弊殿を瓦葺平屋造とその風格がしっかりと守られています。
また、雪よけのガラス張りもされ神社を守るという氏子・地域の暖かみと篤い信仰心をうかがい知ることが出来ます。
国道8号線によりその氏子区域が分断されてはいますが、この地域に引っ越してきた方との交流は正しく受け継がれており、8号線西側で行われる町会夏祭りの際に当社の太鼓を用いるなどされています。
お祭り
1月3日 | 歳旦祭 |
4月2日 | 春祭り |
10月16日 | 秋祭り |
11月22日 | 新嘗祭 |
お祭りの前に氏子の皆様には祭典奉納幣帛料を納める御初穂料の袋をお配りいたします。
これらのお祭りは、氏子の皆様のご家族の平和と今後の隆盛、また三日市の里の安寧を願って、氏子総代をはじめ多くの皆様のお力添えをいただき盛大に執り行われます。
近年の祭典における特色
三日市町内は国道8号線で分断され、東側には三日市新町町会が新設されてもう数十年たちました。
この新町町会は三日市地内としては独自の氏子形態を用いて地域のお祭りを守ってきておりましたが、平成28年の子供キリコ祭を機会に、三日市に住む全ての人が力と心を合わせ、未来志向の地域社会育成へと団結することとなりました。
つばきの里が整備され始めた前後から、再び三日市の街には爆発的に人口が増え始めました。
野々市市北西部土地区画整理事業の進行に伴って住環境が立派に整備された事が要因ですが、つばきの里公園の落成を前に北陸新幹線の金沢開通があった事も地域活性化の一因としては一大事であった様に感じます。
郷八幡神社とは、地域社会の八幡さまという意味合いから、これからもより一層麗しく和やかな三日市の町を守り育てるため、人々を見守り賑やかに集まれる大切な場所として守り伝えられる事でしょう。
付記 : 平成29年2月1日を以て、三日市の地番は丁番地表記となり、これに合わせて神社の所在地も下記の通りに変更になりました。
氏子区域地図
野々市市三日市地内は全て洩れる事無く郷八幡神社の氏子区域となります。
地鎮祭や入居浄祓いなど土地に根付いたお祭りは当神社(春日神社)が受け持つよう決められております。
鎮座地 周辺地図
鎮座地 : 石川県野々市市三日市一丁目179番地
(旧住所:石川県野々市市三日市町73番地)
連絡先 : 春日神社社務所 もしくは 町会を通じて郷八幡神社の当年氏子総代まで