増泉 春日神社 春季例祭無事最終日の夕方に想う。

  • 禰宜
  • 21 6月 2017
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万難を排してのご参拝

人生80年となって久しい日本ですが、禰宜が皆様と顔見知りになってまだ10年ほど。

しかし、幼少期よりご存じの方にとっては、生まれる前から私の存在を認知されております。

ただこれは神社に限ったことではありません。

どこの家でも、地域社会との繋がりはあるもので、隣近所にどんな子供が何人いるかなんて事は知っていて当たり前です。

神社だから特殊だ、とは考えておりません。

それでも、集会事などに参列させていただくと頭を下げて挨拶して下さる方が少なくはありません。

身に余る光栄なのです。

 

私が神職の資格をいただいた学院では、

「神主は、お参りに来るどんな人よりも頭を下げていなければならない。それは、神様に対してはもちろんだが、お参りに来て下さる人に対しても同様になんだ。」

と、きつく言いつけられました。

「神主は、お参りにみえる方と神様との間を取り持つ者。価値があるのはその両者であって、神主はただそこに存在するだけで良い。」

とも。

 

お祭りなどはもちろんですが、日々の参拝などに至るまで、御奉賛いただける方というのは正に神社の宝であり、それは地域文化を守礎であるのです。

ですから、今回のお祭りにも万難を排してご参拝いただけます方々が多数いらっしゃいますことを、喜ばずにはいられません。

毎度毎度口を酸っぱくして申し上げていることではあります。

ですが、それでも足りないほどに、皆様には感謝の思いが募る一方なのです。

そしてそれは、私たち神主が受け止めてはいけない真心でもあります。

先ほど申しましたとおり、神主は、お参りの方と神様をつなぐだけの者。

皆様の真心は仮に神主が受け持ち、恙なく大神様へと受け渡されます。

ですから、我々神職が、「ありがとうございます。」とはあまり申し上げられません。

「ようこそおこしくださいました。」

「また秋祭りにお顔を見られることを楽しみにしています。」

初穂料を受け取る時も、「お供えさせていただきます。」や「お預かりいたします。」

ただただ仲介役として徹するのです。

そんな身の上ですから、皆様に平時で頭を下げられると、こっぱずかしくなってしまったりするのです。

 

春日神社の神主として

これまでの50年の常識が、これからの50年にはきっと全く通じなくなる、そんな世の中が予想されております。

もちろん神社という存在は、この春日神社および十社会だけでも1300年続いてきた歴史がありますから、そうそう朽ち果てるということはありません。

しかし、資本主義社会かつ個人主義社会においては、これまで同様の法人格を持つこと他大変な労力や妙案が絶え間なくわき続けない限り無理でしょう。

人も物も、今の神社には全く足りておりません。

そして、神道を皆に伝えるための柱も、今や何を支えているのか迷走している時代です。

個人の考えだけで、その場しのぎのかぶせ物をして臭いものを隠していても、結局はその本質を見抜かれるものです。

そもそも、神社と関わりの深い方であればあるほど、そういった小手先の愚策などまるっきりお見通しの上で、「守るべきものは氏神様也。」と臭いものに蓋をしている様を見過ごしてくださる場合が多く見受けられます。

神社神職は、こういった氏子崇敬者の皆様のお気持ちを、常に敏感に感じられるものです。

皆様のお気持ちが理解できるからこそ、お参りいただく全ての方に対して、感謝と畏敬の念が絶えることはありません。

春日神社禰宜としてご奉仕し、兼務九社の宮司として身を委ねる者として、これまでも、これからも、変わらぬ守ると誓っておりますのは正にこの想いに他なりません。

 

そして私は、お参りいただく皆様の姿から、大神様を感じているのです。

 

お参りに足をお運びください

どこの神社でもそうなのですが、春日神社でもご多分に漏れずお祭りのご参拝が大変少なくなっております。

私の思い出せる範囲内でも、一番多くお参りいただいた頃のほぼ半数以下、といった具合です。

人口増加を合わせて鑑みると、このお祭り離れは30年で-70%程度というところでしょう。

しかし、お正月のご参拝は人口増加と比例している様子がありますので、神社が嫌いな方が増えているわけではなさそうです。

 

では一体何だろう。

 

これはただ単純に、神社がどこにあるかわからなくなってしまった、ということが原因の一つにあります。

氏神様が何処にあるかわからないけど、テレビCMなどで大きく知れ渡っているところはみなさんご存じで、祭りや年中行事、人生儀礼にまでこのお社に向かいます。

田園広がるその昔、神社は地域で一番大きな森と、一番大きな屋根を誇っていました。

しかし今ではどうでしょう。

春日神社に例えますと、お隣にはとてもとても大きなスーパーが建っており、タクシーの運転手さんに教えるのも「春日神社」ではなく「アピタ金沢の隣の神社」と伝えたほうがよくわかります。

要は、神社が小さくなったのです。(物理的・相対的に。)

また、個人の声があまりにも大きく重くなりすぎたため、地域や会社、また神社が発する声があまりにも軽んじられすぎている感が強くあります。(精神的・相対的に。)

 

ではどうしたものか。

 

そもそも神社とは、そういった大きさなのだと受け入れ、これを変わらぬ一つの物差しとして周知いただくことがよいと考えております。

神社の表す物事は1000年変わらないわけですから、幸せや願いの大きさもずっと変わらず表現してきております。

 

愛する奥様に宿った新しい命が、無事にこの世に生を受け、母と共に傍に居て欲しいと願う気持ち。

生まれた我が子を、新しくおじいちゃんおばあちゃんになった両親とともに神前に出向く幸せ。

社会人としての自覚を持ち、学問と共に培った家族の絆を大切にして自らの人生にまい進する支えとして。

病に苦しむ友人を助けようと願う心。

両親の長寿を祝う娘の気持ち。

地域社会が平和であると感謝するお参り。

 

まだまだありますが、これらは50年前でも、50年後でも、もちろん1000年後でも、変わらず神社で大切にされ、人々はお参りに見えられることでしょう。

ワタクシ、禰宜は、必ず来るこの未来に向けて、ご参拝いただく皆様のお心を大神様にお伝え申し上げるのみなのです。

でも、当ホームページのような場で少しずつ皆様にお伝えしていかねばならないと感じております。

 

とりあえず今回お伝えするのは、

「少しでも良いので、神社に足を運んでみてください。」

ということです。

 

堅苦しく、支離滅裂な文章を書く禰宜ではありますが、できる限り時常勤して居ります故、何卒。

もちろん御朱印もありますので、神社社務所の玄関インターホンを押してください。(電気代節約ということで、常は明かりを消しております…。)

皆様のお参り、心よりお待ち申し上げております。

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