御馬神社の由来
所在地 :
石川県 金沢市 間明一丁目 八十五番地
(旧石川郡米丸村 字 間明2129番地)
面積 :
1765.5平方メートル
祭神 :
高皇産霊尊 … 天地万有の造化の一神
(タカミムスビノミコト)
保食の神 … 全ての食物の神
(ウケモチノカミ)
菅原道真公 … 学問の神
(スガワラノミチザネコウ)
祭礼日 :
歳旦祭 (1月1日)
春祭り・祈年祭 (3月21日)
秋祭り (9月21日)
新嘗祭 (11月25日)
月次祭 (上記祭礼の無い毎月の21日)
由緒 :
当社の創建年代は不詳であるが、延喜式の神明帳(927年編纂)に記載されている「御馬神社」は当社であるとも言われている。
また、当社に関する伝承では、中世以降兵火に遭い社殿喪失の為、仮殿を造り神器・古文書などは村史「宮本次郎兵衛」が一時保管したとのことである。
その後、藩政後期の文政六年(1833年)の出火で、神器・古文書をはじめ三代藩主前田利常寄贈の下馬札も消失した旨の言い伝えもある。
当社は明治当初の一時、間明神社と改称したことがあったが、明治14年10月再び御馬神社に復している。
明治4年には村社に、同39年12月には神饌幣帛料共進神社に、それぞれ指定されている。
昭和40年9月には玉垣を整備し、同48年10月には土地改良区画整理事業の完成を記念して、社殿・鳥居・手水舎・神馬等を改新築し、同57年9月には拝殿の瓦葺き替え工事を行う等、社殿及び整備に努め、現在に至っている。
金沢市指定保存樹木 :
ケヤキの大木 … 参道中程左側、樹齢300年
ケヤキの大木 … 拝殿右側、樹齢200年
鳥居なしの宮 :
藩政後期に柴野美啓著によると、「往事村民が鳥居を建立したところ、その後倒壊し四十数名が神罰で頭が禿げた。」との伝承がある。
これより、「鳥居なしの宮」とも呼ばれている。
式内社 :
式内社とは、延喜式巻九、巻十の神明帳(927年)に掲載されている神社を云う。
その社数は全国で2861社あり、うち石川県関係では加賀に42社、能登に43社が挙げられる。
御馬神社は加賀式内社42社(石川郡10社)の一社として挙げられているが、同名の神社が同国石川郡内に2社あるところから、その確定に関し明治初頭以来意見の相違が見られ、同郡内の御馬神社2社の鎮座地は金沢市間明町1-85と他の一社は金沢市久安1-178である。
両神社とも確たるものはなく、お互いに当社が式内社であると主張している。
御馬神社の氏子・間明の町の移り変わり :
(寛文10年、1670年)
藩政時代は石川郡間明村と称し、家高は7軒、百姓は14人であった。
(宝永5年、1708年)
その後、家数29軒、人数170人、馬5匹となっている。
(明治2年、1869年)
家数37、人数176人、馬5匹となる。
作物は、穀物の他、茄子の栽培が盛んであった。
(明治4年、1871年)
廃藩置県により金沢藩は金沢県となり、翌5年石川県となった。
(明治6年、1873年)
御馬神社境内に高畠小学校が開設される。
(明治9年、1976年)
戸数34戸、人数209人(男97人・女112人)となっている。
産物として、穀物、蔬菜(そさい)、麻、菜種等を産出し、金沢町に売り出していた。
(明治22年、1889年)
4月、市町村制移行に伴い石川郡間明村は新行政村米丸村の一字となり、米丸村字間明と称することになる。
戸数31戸、人口216人であった。
戸数及び人口の多さもあり、間明では区長が置かれ、米丸村役場との円滑な意思疎通が図られることとなった。
(昭和10年、1935年)
12月、石川郡米丸村が金沢市に編入される。
これにより、同村字間明は金沢市間明町となる。
戸数30戸、人口175人。
(昭和33年、1958年)
間明町の東南部の一部が米丸町になる。
(昭和40年、1965年)
間明町西部の一部が進和町となる。
(昭和45年、1970年)
世帯数69世帯、人口313人。
この頃、間明地区ではその中央に野田専光寺線(西インター通り)の自動車舗装道路の開設を目指して土地区画整理組合が結成された。
2月、この土地区画整理により、西インター通りを挟んで北側が住宅地、南側が準工業地となった。
これとほぼ時を同じくして、北側の住宅地が間明一丁目、南側が間明2丁目となった。
(昭和56年、1981年)
世帯数は316世帯を数え、人口914人と大きく飛躍した。
平成27年 5月15日 村田 正 著
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