幼児期の教育に一つの重点を

人間としての社会を生きていく上で、言葉は最重要且つ必須の能力です。

その類いに同じであれば種別を問いません。

しかし、学問を修める以前の社会規範を形成するに至るまで、特に幼児期においては、保護者と同じ言語を習得しておく方がよろしいといえます。

その習得の深度も、できるだけ深く特殊な言葉もよりいっそう知り得た方がよろしいでしょう。

私のような仕事をしていれば、普通一般のご家庭では口にすることなど皆無である、「ご祈祷」や「お祓い」等という言葉も、ごくごく小さな頃から覚えてゆくことでしょう。

その上で、家族という最小の社会単位を愛情と共に形成していってこそ、将来に向けた大きな人間社会へ旅立つ準備ができてゆくところです。

その重点として、左記の通りことばを習得することは、とても大切なことです。

 

ですが、ことばというのは声からなるモノばかりではありません。

手話もあれば、ジェスチャーもあります。

目で会話できるのであればそれもまた良しで、絵で感情や思いを表現することもあるでしょう。

もしかすると、各々の心に直接思いを投げつけるテレパシーのようなモノもあるのかもしれません。

ともかく、個人の意思を社会に伝え、社会の意思を個人がくみ取ること、それが大切で、幼児期であれば学問を修めるにおいてことばは必要不可欠となります。

知識を得ずして人間である利点はありませんから、どんなことであろうともより多く未知を既知へと変えていくべきであり、その手段であることばは何よりもはじめに覚えるべきでしょう。

 

昨今は日本語以前に英語を覚える風潮もありますが、小さなお子さんだけが英語をしゃべってても親や保護者がしゃべることができなければ意味はないでしょう。

言語発達に不可欠である会話や絵本などの読み聞かせを、習得すべきことばで出来なければ、愛情も伝わりにくい。

両親が日本語しか出来ないのであれば、無理に英語を納める必要はなく、そもそもどの程度習得しているかすらわからないのですから我が子を褒めることすら出来ません。

最初の一歩は、日本社会の中で成長するのであれば日本語がよろしいのです。

日本語は、語学として習得するのではなく、意思疎通をするための道具として納めましょう。

もちろん、社会の基礎としてルールやしつけなどありますから、一先ずの基準として納めるにも日本語は十分といえます。

2016年度 全国学力テスト 石川県

小中学校の全国学力テストの結果が掲載されました。

石川県は小学校では国語A、算数A、算数Bで1位を記録しており、全国的に見ても十分上位といえます。

指針の一つとして、子供達が胸を張れる結果といえます。

そして出来れば、これからもそのままに成長を続けて欲しいところです。

どんなに親や先生が努力しても子供の好奇心を無理矢理沸き起こらせることは叶いませんが、子供達同士で意識の高まりがあれば大人が何かする必要はなくなります。

夏休みの宿題をやれと言ってもやらないのと同じです。

そもそも、宿題をやることは勉強のためでは無く、期限までに自分の任務をこなすかどうかですから、将来のためなんて言ってても子供はやる気にはなりませんからね。

今の石川県下では、学問に上手に向き合うことが出来ている、その証拠がこの学力テストの結果なのでしょう。

では心の成長はいかほどか

209年の調べでは、石川県は全国6番目に宗教に対する信仰心のあるところとされております。

浄土宗・浄土真宗系がかなりの比率を占めますが、これは宗教へ向き合う姿勢が、精神的に整っていることを表します。

私はこれを、心に柱を持つことを嫌わない姿勢とも考えております。

実際に私がご奉仕をしております神社関係者の方々からは、お寺さんのお話もよく耳にし、忙しい中でも祖先を大切に思う心を養い、自身の生が持つ希望を確かに感じていらっしゃいます。

人生における解決不能の一大事であっても、一つ神様という緩衝材を経て自分の心に受け止めるため、一度に混乱することなく人間として健全に精神を保ち、これを社会が理解するからこそ騒乱などにつながらず安全安心な集団が形作られております。

石川県は、心に置いても必要十分な素養を持っているといえるのです。

 

この心の成長は、学問の成長があってこそであり、先んじてことばを収めている幼児期があってこそでもあるのでしょう。

 

かなり遠回りな考えかもしれませんが、心の柱は今後確実に必要であることは否めません。

 

若者の自殺率増加

現代日本において、自殺は深刻な社会問題としてあげられております。

実情として、厚生労働省が発表した平成26年年齢階級別の自殺者数の推移 統計において、15歳から39歳までの死因1位が自殺となっております。

事故や病気ではなく、自殺が1位なのです。

そしてこれからの日本では、より一層この色合いは強くなってゆくことが予想されております。

だからこそ、心の柱足る拠り所が必要なのです。

自殺に向かわない、柔軟な心が必要なのです。

成果主義や資本主義に捕らわれない、精神的に豊かな人間を育てる必要があるのです。

その基礎として、宗教は大変重要であるのですが、宗教だけにこだわりすぎても柔軟性が損なわれることは今の世界が示してくれています。

ではどうするのか。

 

そこで、神道の出番である、と、最近皆さんに伝えております。

 

古代で言うと、

一人の神様がとんでもない力で全てを決めることもあるけど、同じ神様がちょっと怒って拗ねて世界を滅ぼすほどになっちゃったりするのが神道です。

とても強いのに人間に悪さばかりしていた神様が、あるとき女性との出会いで改心し、以降豊かな国を造ったりするのが神道です。

現代で言うと、

お正月にお賽銭を電子マネーで決済したりするところがあるのが、神社です。

世界から様々な宗教の観光客が来て、時には国の長がお参りするのが、神社です。

小学生が自分のお願いを叶えるために、息を止めて長い赤鳥居の参道を走り抜けたりするのが、神社です。

 

どうでしょう、柔軟ではないですか?

 

自殺に向かう方は、「死んでどうする!」なんて言葉すら聞こえなくなってしまい、また現代の個人主義はそういった方を見つけることも出来なくなってきております。

社会的にも個人的にも孤立の進む世の中なのです。

あまりにも時間が早く過ぎるため、みんながみんな焦っているのです。

でも、そこまで結果を求めなくても、まぁ良いんじゃないでしょうか。

 

どうにかなるし、どうにでもなります。

自分じゃなくても、誰かがいます。

大切ならみんなで守れば良いし、無駄なこともたくさんする方がよろしい。

間違えたら正せば良いし、正せるまで時間かけてもいい。

好きや嫌いだけで物事決める必要もないし、今は嫌いであっても今後好きになるかもしれない可能性をなくす必要もない。

出来ることは有限だけど、許すことは無限にある。

こんな感覚を、皆で持てば、それほど窮屈な世の中でもなくなるんじゃないでしょうか。

 

だからこそ、神道だと考えるのです。

 

先ほどあげた厚生労働省の統計において、神道の信者とされる比率は大変小さくなっておりますが、文化庁が平成27年に報告した資料(宗教統計調査)によると全国9200万人が信者として計算されております。

これは、日本人特有の傾向ですが、神社を宗教として見ていないことが第一の要因となります。

お葬式はお坊さんにあげてもらうから、仏教だ。

結婚式を教会で挙げたから、キリスト教だ。

でも、お正月に神社にお参りに行くから、神道だ、なんて考える人が少ないのです。

そしてこの調査では、信者の総数が人口を上回ります。

二つ以上の宗教を信じている方が、それほどに多いのです。

調査の前提が宗教法人数ですので、なおさら個人の信じる宗教を確定することが困難になっているのですが、少なくとも神社はほかと一緒くたにしても良いところと受け取られていると考えて差し支えはないでしょう。

唯一無二である必要のない宗教である、と言い換えても良いかもしれません。

 

これを根底に持っていれば、生きるために追い詰められることも少なくなるのではないでしょうか。

目的のために手段を問わなくなってしまうのは、愚の骨頂。

人間生きてればいつか幸せになれるので、その幸せのためなら多少回り道してもよろしい、と。

 

ゆったりゆっくり考えてゆきたいのです。

 

 

そのために、幼児期に保護者や親と同じことばで生活することは、とても大切なのです。