石坂台(にし茶屋街)の歴史 アイキャッチ

春日神社の氏子地域として

犀川中流左岸の春日神社氏子地域には、古墳時代にはすでに人間が生活していた痕跡があり、飛鳥時代よりも以前にはこの地域独自の社会構造か築かれていたことに間違いはありません。

この証左として、昭和40年に増泉排水路遺跡(増泉4丁目・5丁目・西泉の境界地)から土師器(はじき)が出土しています。

古代後期(弘仁14年・西暦823年)に加賀国が成立すると、この地域は石川郡井手郷に属され、現代においても西泉に井手神社が御鎮座坐し、その名を残しています。

それまでも氏神様をお祀りしていたこの地域において、天暦元年(西暦947年)大和国三笠山の春日大社より神霊を勧請(かんじょう)し春日社と称すお社となり、藩政初期以降は田中家神職が代々奉蔡・護持運営してきております。

この地域を成す一つに、石坂台がありました。

石坂台は、春日神社氏子として長い歴史を持つと共に、その変遷の中で加賀国に係わる重要な位置を示してゆくことになります。

にしの検番周辺の様子平成4年
にしの検番周辺の様子平成4年

藩政期の石坂村

石坂村は藩政期前期には押野組に、後期は米丸組に所属し、行政区画上の石川郡五ヵ庄に所属しており、この石川郡五ヵ庄に鎮座するお社の祭事を担っていたのが春日神社でありました。

加賀国高物成帳には、寛文10年(西暦1670年)の石坂村の生産高は村高72石・免五ツ五分。

押野組の豪族であった後藤家の残している文書には、寛文年間当時家高2軒本百姓3人、その30年ほど後の宝永5年には百姓家3軒百姓21人等と記されています。

要は広い農村地帯であったということです。

しかし、金沢町から犀川を越えてすぐに広がる広大な土地ですので、現代でいう住宅地としての需要が高まってゆきます。

このことから、百姓民から土地を借り、その地に家屋敷や寺院を建てる者も現れ、有力藩士阿部平三郎や葛巻き蔵人などの屋敷や竜昌寺(猫寺)があったと後藤家文書に記されております。

また、農地では無く安い住宅を建設しそこに安い家賃で人々を住まわせる百姓も出てきたようで、庶民の家々も連なることになってゆきました。

 

その後石坂地域では加賀藩などの名により区画整理が進みます。

 

寛文7年(西暦1667年)には、石坂地内にあった与力らに対して小立野と泉野に設けた与力屋敷へと移住するよう加賀藩より指示が出ております。

元禄9年(西暦1696年)には、群奉行から町奉行へ移管。

この時期に、藩政より大組足軽の角場(鉄砲射撃練習場)を石坂村の南西端に設け、明治4年4月の戸籍編成の際に石坂角場(1番丁~12番丁)成立の起源となります。

文化8年(西暦1811年)には、石坂村は町家が連なる石坂町へと成長し、同町総軒数は360軒を数え、町には総取締役1名と肝煎2名が配置され、町内は4つの組に分けられ管理されていた様子。

文政3年(西暦1820年)には、遊郭「石坂新地」の設置が許可され、急速な発展と共に「石坂1000軒」という表現語句も登場したようです。

反省中期から後期に係る時代は、石坂村の土地所有者は東力屋五右衛門と八日市屋某の二人とみられ、この土地の大半が藩士前田萬之助の屋敷となり、残りの土地を借りている者と含めて、これら土地所有者らは相対卸しの地子銀(いわゆる土地使用料)を徴収していたとされます。(稿本金沢市史より)

文政6年(西暦1823年)には、金沢町奉行が使用する町名に、北石坂、南石坂、助九郎、石坂新地、元哲、針屋、小柳、金戸、石坂川岸などの町名が見られるほどに明確な発展を遂げました。

 

廓(くるわ)の登場

文政3年(西暦1820年)の設置許可により、石坂台の地域には二つの廓が設置されることになります。

石坂町には西の廓がありました。

北石坂新町付近には北の廓がありました。

 

では、いきなりそのような設備が出来たのかというと必ずしもそうではありません。

政令指定以前元和年間(1615-1623)の頃には金沢町の荷上場や風呂屋に遊女・湯女がいたことは三壺聞書に記録されています。

しかし藩政期においても風紀を乱す営業行為は厳しく取り締まりが成されており、寛永5年(西暦1628年)に金沢街中定書にて禁止されています。それでもそういう類いの店は後を絶たず、藩政後期の文化年間(西暦1804-1817)の頃にも犀川下川除、観音町坂下、宝円寺裏門坂、母衣町、笹下町などの町家に遊女がいたと金沢俳優伝話に記されております。

これらを正しく藩政下に置き一般町民への悪影響を防ぎ見張る為に、文政3年(西暦1820年)犀川左岸の石坂と浅野川右岸の愛宕の両地に遊郭設置を許可することにしました。

これが、西の廓と東の廓が誕生に至る経緯です。

これらの郭はそれぞれ「石坂新地」と「卯辰茶屋町」として一町四方を塀で囲み、この区域に入る出入り口には木戸を建て、武士僧侶の入廓を禁じ、廓内で働く遊女等は無断で外に出ることが禁じられました。

これらの業態の性質上、人身売買の根城となりかねない為であり、また公序良俗を厳しく守る為に塀で囲まれていたと推察されます。

外出を禁じられた者達のため、西の廓である石坂新地に前田藩主の祖とされる菅原道真公をお祀りした菅原神社が、現在も残るにし茶屋街の検番前駐車場に創建されたのもこの頃とされます。

以降22年を経過した天保2年(西暦1831年)風俗の矯正刷新を理由に両廓の営業は停止されることとなってゆきました。

この時、東西の廓には160軒の茶屋があり、芸妓・遊女等は200人を超えていた模様です。

 

その2に続く