平和には無く、動乱には現れる
その後激動する時代が訪れます。
時代のうねりの伴う明治維新に向かって、人々の心は大きく動揺し経済状況や藩による統制も悪くなる一方だったのかもしれません。
天保4年(西暦1833年)には天保の大飢饉が始まり天保10年(西暦1839年)まで続いており、国内では至る所で一揆が起こったのです。
こういったところから、営業を停止していた「廓」の業態が、金沢町の中に多く発生してきたのでしょう。
ついに藩政末期の慶応3年(1868年)、藩当局は石坂及び愛宕の遊郭再開を許可することとなります。
ここに、西新地と東新地が誕生することとなりました。
また、新政府樹立後の明治2年(西暦1869年)には金沢藩より浅野川大橋詰め所西方に新たに遊郭設置を決め、主計町(かずさまち)が許可されることとなります。
新政府の法令整備は徐々に進み、廃藩置県の行われた翌年明治5年(西暦1872年)には石川県より人身売買禁止令が出され、石坂新地の呼称は廃止さ、石坂1番丁2番丁3番丁とよばれることになりました。
次いで石川県は明治9年(西暦1876年)に石坂女紅場規則を制定し、芸妓・娼婦に習字・算術・裁縫を習わせる教習場を設けています。(おそらく、仕事に溢れた女性達を救うための配慮だと思われます)
また同じく明治9年に「貸座敷、芸妓及び娼婦に関する規則」や「売淫罰則」「検黴規則」など人々を守る取締規則が制定されています。
しかし、法令通りに営業をしているのであれば問題はなく、品格のあるお茶屋さんが厳選されていったのもこの頃からなのではないでしょうか。
明治以降もこれら遊郭は働く者達の社交場として長く利用されてゆきました。
西の廓の大火災
明治13年(西暦1880年)に、石坂町で大火災が起こります。
315戸を燃やし尽くしたこの火災は、「石坂の大火」と呼ばれこの時西の廓に鎮座していた菅原神社も焼失しています。
この時、菅原神社の御神体は春日神社へ一時祀られます。
そして明治15年9月25日に再建を見て、廓の人々が見守る中厳かに春日神社より遷御され元の場所に戻り御鎮座され、賑やかに慶賀祭が摂り行われたようです。
明治13年4月14日に廓内で発生したこの火事は、廓内97戸を燃やしただけでは無くその外まで火は及び廓外の210余戸をもその火の手の中で炭としたとされます。
この火事の様子は、再建された菅原神社で行われた10年祭の祝詞の中で記されています。
明治24年11月24日に摂り行われた菅原神社再建10年祭はとても大きなお祭りとなったようで、花火が打ち上がり生花も奉納され、正に西の廓をあげての盛大な再建10年慶賀祭となったのでした。
春日神社に残るこの石碑群は、石坂の町に起きた大火を今に伝える貴重な資料となっています。
そしてそれは、氏子の方々が如何に廓と付き合い、廓を大切に見守られていたかを知る資料でもあります。
長い年月が経っても氏子崇敬者の想いが薄れることは無く、現代においてもにしのお茶屋さんは春日神社出世稲荷神社を奉り、大厄の無いよう見守っていただけることを願っていらっしゃいます。
北の廓の誕生と移転
明治18年(西暦1885年)頃、石川県は金沢町の栄町、松ヶ枝町一帯にあった料亭に貸座敷として営業することを許可しました。
これを以て北の廓が成立することになります。
しかし、明治22年4月に金沢市政へ移行すると北の廓の所在地は商工業の発展にとって思わしくないとされ、鉄道整備計画が上がると尚更その声は大きくなり、明治29年(西暦1896年)に金沢市議会において北の廓の移転が決定します。
そして明治32年(西暦1899年)に「北廓」は、北石坂新町・石坂一ノ小道にかけて9,970坪の地に集団移転となります。
この新たに移された北の廓にも稲荷神社が建立され、毎年祭礼時には春日神社摂社である出世稲荷神社より深夜の渡御を行い御神徳を深くお祭りされておりました。
現代においてはこの渡御行事は廃れてしまい、残されてはおりません。
かくして西の廓は、さらに西方にもう一つ北の廓を設ける事となり、広く勤労者の憩いの場として、また金沢文化を守り伝える芸妓の里として機能してゆきます。