石坂台(にし茶屋街)の歴史 3

  • 禰宜
  • 14 8月 2017
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石坂台(にし茶屋街)の歴史 アイキャッチ

その2より

明治から大正・昭和の西の廓と石坂の町

明治期

明治末期以降、西の廓には明確に上町と下町の区別がつくようになります。

上町は高級社交場として独特の気概と社会集団を持つようになり、下町は庶民の遊楽場として手取りの少ない者達にも門戸を開いてゆきました。

明治末期には、西の廓を成した石坂町73軒、南石坂町21軒、石坂角場一番丁27軒、石坂角場二番丁3軒の、計124軒の紅燈の軒が並び、北の廓を成した北石坂新町に万一桜、大丸桜、扇十屋など10数件があった様です。

上町のお茶屋街からは鼓・小唄などに特に秀でた名芸妓も多数生まれることとなったり、明治中期の自由民権運動壮士遠藤秀景が北の廓界隈へ遊興(ゆうきょう)するなど政治文化の発展にも深く寄与していったことがうかがえます。

 

大正期

大正時代には第一次世界大戦の勃発によって特需となり、成金等が廓をさらにに賑わわせることになってゆきました。

この時代を描いた小説作品があります。

島田清次郎の「地上」ですが、情緒的な旅愁溢れる作品でベストセラーになったようです。

この作品は青空文庫にもなっているようで、無料で楽しめますのでお時間のある方は古い金沢を是非お楽しみ下さい。

第一次世界大戦終了後には成金達も身を潜め、明治12年(西暦1913年)に発生した関東大震災のあおりも受け金沢の経済界も衰退の一途をたどります。

加えて大正デモクラシーや公娼廃止運動など女性をより良く守る運動や思想の発展が相次ぎ、西の廓の芸妓置屋の地位も少しずつ一般社会に向けて歩み寄って行くことになったようです。

同明治12年4月には、にしの検番所にて芸妓置屋に住む義務教育該当の女児等へ学習することを義務づけ、この教室を野町尋常小学校仮教室としました。(これをターボ教室と俗称されていたようです。)

 

昭和期

ターボ教室は昭和13年まで続けられましたが、昭和に入って以降も経済界の衰退は進む一方で、デフレ政策も相まって人身売買(娘の身売り)が社会問題になるまで深刻化してしまいます。

この当時の石坂台は、カフェやバーなどが進出しお茶屋さんとしての地位が揺らいだ時期でもありましたが、芸妓の芸道修行を正し、伝統芸能の保持育成に邁進することでこれら新時代の甘言を振り切ってゆきます。

そして現代にも名を残す文豪等がにし茶屋街へと遊び通うようになり、室生犀星・堀辰雄・芥川龍之介等が出入りし当時の様相を細やかに残してくれています。

ちなみに、芥川龍之介の「のとやのシャッポとの悲恋」は今も語り草になっているとのこと。

室生犀星が芥川龍之介を金沢へ招き、寺町のつば甚でにしの芸妓3人と夕食を楽しみます。

そのうちの一人がシャッポでした。

彼女らと楽しんだ一夜の後に、にしのお茶屋さんであるのとやに出向きましたが、旦那がいたりと激しく心を揺さぶられたようです。

 

芸妓とお客の織りなす風情も、長く続くことはありませんでした。

世は軍事特需でしか生き残ることの出来ない日本情勢を目にし、盲目的に戦時体制へと突き進んでゆきます。

合わせて必要悪を許しすぎだという論調は苛烈さを増してゆき、西・北・東の廓にも強い規制が行われるようになってゆきました。

昭和16年(西暦1941年)、新たな芸妓及び茶屋取り締まり規制。

同じ頃、防火頭巾をかぶりバケツリレーの訓練などが行われる。

なんと、西の廓から満州へ国防婦人会芸能班として2名出動。

こういった緊張の高まる中であっても、平時を楽しむ国民の娯楽として廓は正常に機能し続け、廃れ寂れるまでは無かったということです。

 

しかし、昭和16年(西暦1941年)12月、太平洋戦争が勃発します。

国民総戦力。

廓の燈をともす者もいられなくなり、昭和19年には県が高級料亭及び茶屋貸座敷の営業停止を命令。

にしの芸妓等は寺町の軍事工場で飛行機部品製造に充てられる。

空襲の被害防止のため家屋の間引きも行われ、西の廓をお護り続けてきた菅原神社も解体、御神体は春日神社へ遷座される。

結果、戦火は免れ、昭和20年(西暦1945年)8月には終戦を迎え、同年10月には西、北、東の三廓の営業が許可されます。

また、同年11月には石坂遊郭15軒が進駐米軍専用に充てられ、西と北の廓は米軍将校の遊興の場となっていったようです。

 

廓への風向きはこの後大きく変わってゆきました。

 

昭和21年(西暦1946年)1月、GHQより公娼廃止の覚え書きが出され、県は芸妓の処遇改善を通達。

昭和23年(西暦1948年)7月、県が風俗取締施行条例を広告。

(この頃に青線、赤線の俗語が使われ始める)

昭和31年(西暦1956年)5月、売春禁止法公布。

(いわゆる赤線地帯とされた石坂遊郭は、最後のパーティーを開き、従業婦は転職・転業することを避けられず、明治以降掲げられてきた紅灯は、消えさることになったのです。)

同昭和31年、青線地帯と呼ばれていた西の廓の及び北の廓では、この機会に廓の名称から料亭へとその名を変えることにします。

こうして、西の料亭16軒、北の料亭18軒が、芸妓40人前後を抱えある種独立した形になりました。

時代の荒波はこれに留まりませんでした。

寺町からアピタ金沢の前に続き、金沢西インターへと繋がる野田線小路線の開通です。

この道路に、ちょうど北の料亭が重なってしまいます。

これにより、北の料亭の8軒は西へ移転、他は廃業・転業へと余儀なくされたのです。

昭和47年(西暦1972年)、北の料亭の灯も、消えゆく様になりました。

 

春日神社の氏子区域でもあるこれらの地域は、喜怒哀楽を力強く表現しながら、ある時は激しく炎の塊となり、人々の心を潤す水ともなり、守る者のいる石垣ともなりましたが、最後には自らの想いを胸に消えゆく風となったのです。

 

それでも消えて無くしはしない

今、3つのお茶屋街では、観光資源であると共に、金沢の伝統芸能を残し伝えてゆく場として広く知られるようになりました。

赤線青線の言葉を知っていらっしゃる方もまだ多く、上町、下町を知ってらっしゃる方もまだまだいらっしゃいます。

「若い頃は、仕事で滝のように汗流すのは、いっさか行って遊ぶためやったんや!」と豪語する方も見受けられます。

 

石坂の町は、にし茶屋街は無くなってなどいません。

世界に飛び出して芸を披露することすらあります。

芸妓の皆さんが、お茶屋のおかみさん方が、それを支える旦那衆が、今の世でも連綿と支え続けてきています。

芸妓等の文化芸術は切磋琢磨され、現代にも繋がる「一調一管」など芸妓衆等によって高められた金沢の伝統文化は目を見張るものがあります。

金沢観光にみえられる方にとって、もしかするとにしの茶屋街は物足りなく感じられるかもしれません。

大人数のお客を迎える大きなお茶屋さんがあるわけではありませんし。

しかし、にし茶屋街は、金沢で一番に芸妓を多く抱えています。

金沢のお茶屋さんの芸を支える大黒柱と言っても過言ではないのではないでしょうか。

だからこそ、いわゆる一般住宅然としています。

でも、今回のこの歴史を知ってしまったら、どうですか。

なぜ今、こんなにも大きな道路が、この位置に走っているのか。

野町駅前にある稲荷社って…?

泉用水を引いたのはたしか・・・春日神社の兼務社の高皇産霊神社拝殿を建てた後藤家…?

犀川左岸の五ヵ庄を治め奉った春日神社の歴史にも、少し興味を持ってみて貰えるかもしれませんね。

 

 

昭和6年の地図とgoogleマップで見比べてみましょう

googleマップの地図を回転させて見ると、違いはより一層わかるかと存じます。

石坂台の町々と米丸村字増泉の図昭和6年
石坂台の町々と米丸村字増泉の図昭和6年

 

石坂台(にし茶屋街)の歴史

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