吉田屋 親子獅子図大平鉢
平素より格別のご高配を賜ると共に、その崇敬の念足るや周囲を魅了し共に導いてくださる春日神社氏子総代会長様より、この度とても大きな絵皿を御奉納いただきました。
口径39.8センチ、高さ7センチと、見事な大きさとなるその大皿には、美しい九谷の黄色と緑、そして深く凜々しい青色が栄える、素晴らしい獅子の絵が描かれております。
「吉田屋 親子獅子図大平鉢」
こう名付けられた大皿からは、180年前の職人による魂の煌めきが明確に残されており、現代にまで誇る九谷の技術が如実に感じられる逸品となります。
九谷焼の歴史
大聖寺藩の初代藩主である前田利治が、九谷の地で焼き物を始めたとされるのが九谷焼の最初の礎とされております。
江戸時代初期に有田で技術を修めた陶工・後藤才次郎は、九谷の地で釜を開き古伊万里などと並び称されるほどに世の評価を得ました。
しかし40年ほどでこの窯は廃業へと進んでしまいます。
この間に作られた物を古九谷と称し、作品らは様々な情景や国の画風が広く取り入れられひとところに留まらずに良き物を良しとして芸術へと昇華していった歴史を持つようです。
この廃窯以降80年ほど九谷焼としての歴史は刻まれることなく過ぎます。
大聖寺の地には才能ある物が実力を発揮できずくすぶることになりますが、地元産業の隆盛と自らの商才を生かすため、豪商であった豊田伝右衛門は文政7年私財を投じ九谷の地に窯を起こします。
古九谷の窯の隣に登窯を設立し、翌年から九谷焼の復活に至ったのです。
これが、古九谷の流れを継ぐ「吉田屋」の誕生となります。
この吉田屋は2年間はこの窯で九谷焼を作りましたが、九谷山は雪深いこともあり移設することになります。
そこで、山代温泉の越中谷へとその窯は移されることとなりました。
山代では立地の好条件も相まって、各地から技術者・名工を集めることが叶い、製品量産に向けた製造工程の確立へと進みます。
量産ということから、作品は日用品が主だったものとなりますが、芸術鑑賞品も生産され、共に古九谷の技術を正当に継承した良品を、世に送り出し続けることにつながってゆきます。
これをもって九谷焼としての歴史はその地を山代へと移すものの、現代まで連綿と技術と歴史を刻み続けているのです。
禰宜所感
今回御奉納いただきました大皿の価値は、氏子総代会長の想いがあってこそであるとしております。
春日神社の春秋のお祭りでは、鯛の骨酒を直会参加の氏子総代全員で酌み交わし、神社を共に守り伝え、結束を固める風習が今でも受け継がれております。
その骨酒には、これまで30センチを超える口径の大皿が用いられておりましたが、長年使っておりましたので少し綻びがあったのも事実。
これを憂う、会長のご英断なのです。
現在計らずとも氏子総代の皆様の神社への関心がかなり成長いただいていることは明らかで、各お祭りの際に無償のご奉仕をいただける方が増えているのです。
また、地域の子供達からは不思議だけど神々しさを感じる森としてとらえられており、境内の手水や赤鳥居にいろいろな曰くを付けていただいたりして好評を得ております。
総じて、神社に対する興味や関心は着実な増加をたどっている反面、神社とは近づき難く無関心であるべきという社会情勢があることも自覚しております。
地域の社会的繋がりを守り育て、友により良い環境で子を育ててゆこうという万民の願いを大切にするべく、今一度の意思統一が望まれているのです。
だからこそ、骨酒に始まる第一歩を、春日神社氏子総代会長は確たる基礎としたいのではないでしょうか。
今回の奉納は、かくも重大な責任を背負った御奉納であるといえます。
一般公開は、このお祭りの期間のみとなりますが、拝殿内にてご参拝いただいた方には遠景をご覧いただくことが出来るようにお供えしております。
地域のみならず、家族親族の未来へ歴史を美しく繋げようとする皆様におかれましては、今後ともより一層のご繁栄と共に明るく楽しい平和な時が訪れることを願っております。
その一端に、是非昔ながらの神社の風景が残れると、面白い昔話も出来るのではないでしょうか。