予想外の想定内。

時代が変わって良くなること。

それは時代が変わって、物事も変化したから認められたのか。

それとも、時代が変わっても、物事は変わらなかったから認められたことなのか。

神社というものの「今」は、2000年以上経っても変わらず認められていることから、”変化すべきは変化するもその本質は変わらなかった”からこそ認められているものと信じております。

現代では、コンビニでも”神社と神様(宝島社)”なる冊子が販売されております。(個人的には、初心者にとっても中級者にとっても、時間つぶしマナー雑誌として持っていて良いものだと考えます。ただし、購入する場合は定価を確認して、コンビニへ足を運んで下さい。ネット通販で買うとちょっと。)

マンガに混ざって置いてあるムック本が、神社と神様。経典や聖書が置いてあるのとは訳が違います。

これについて、神社の価値が低くなると捕らえられている方が居るやもしれませんが、私から見るとそれほどに生活に溶け込んでいると見えるので、間違いの無い内容であればいくらでも歓迎です。

生活に密着すればするほど、神社は身近になってゆくものです。

新しい商品

人生自体が長くなっている現代社会においては、体が悪くなっても如何に楽しく日々を送るかに注目が集まっております。

介護であったり、老老介護であったり、問題とも言われる社会現象が大きなうねりを以て押し寄せてきております。

人口も純減時代(別サイトNTTコムリサーチへ移ります)に入りました。

高齢者でも仕事に従事できるから、腰や足を痛めてしまう方も多くなっております。

私のご奉仕しております神社でも、ご参列の皆様が正座で祭典を見守るところが少なくなって参りました。

この時代で革新的な車いすが開発されたようです。

後ろに漕ぐと前進する車いす。(別サイトGIZMODOへ移ります)

いすに座り、前から後ろへ腕を動かしてこぐ車いす、とのこと。

これまでの腕の動きと全く逆です。

ちょっと考えると後ろにのけぞって倒れてしまうように感じられます。

いったいどんな感じなのでしょうね。

人間工学的には筋力を推進力へ伝えるにはこの方式が良いらしいのですが。

祖母を病院へ送る時など、車いすは欠かせないので気になりました。

それでも変わらぬ、参拝の作法

二拝 二拍手 一拝。

兎にも角にも、お参りの作法です。

出雲などでは所作が変わりますが、頭を下げて手をたたく姿を見知らぬ方は皆無でしょう。

これは、目に見える価値のみを追い続けていてはたどり着けない境地にまで達しております。

静かな杜の中で柏手の音を聞く心地よさも、また家族がそういった仕草をすることを見守ることも、どれほどの幸せであることか。

完全な幸せの形として、一つ独特な空間と作法なのです。

どんなに時代が変化しようとも、神社とは変わらぬ価値基準を持ち、神職は皆ご参拝頂く全ての方の幸せを考えております。

そして、ご参拝頂いたご本人様が幸せであるために、関係するご家族ご親族の全ての皆様、友人知人や仕事学校などの関係される全ての方が幸せに生活されることを祈っております。

これは、日本国のみならず全ての人々に至るまで、です。

 

余計なことはするななんて言われる方もいらっしゃるでしょうが、それでも尚、そういうことを言う方にもご家族や友人知人がいらっしゃるのですから、分け隔て無く幸せのへのご祈願をしております。

 

そしてこの考え方は、これまで2000年を超える歴史においても、変わること無く連綿と続いております。

それは、神職がご祈祷などで奏上する祝詞の中にも込められております。

時代が変わっても変わらない本質は、「自分以外の誰かが幸せであって欲しいと願う心」といえるでしょう。

 

皆様、少しでも幸せになって欲しい方が身近にいらっしゃったら、是非神社へお参り下さい。