遊郭という健全であろうとする社交場を守るということ
男女平等が声高に発せられる昨今、一体何が平等で何が不平等なのかの尺度が緩やかに曖昧になってきております。
男性と同じ事が出来る女性が良いのか、女性と同じ事が出来る男性が良いのか、難しいところですね。
しかし、女性であることや男性である事を誇りに、自らでしか為し得ない仕事に身を投じていた時代もありました。
京都や奈良から離れ、また江戸にも距離のある北陸は加賀藩には、東海道では為し得なかった独自の文化と、東西二つの都が混じり合った独特な文芸が磨かれていきました。
加賀藩の遊郭は、加賀百万石を支える社交場として存在していたのではないでしょうか。
私が地元の情報を探す際に、常に参考にさせていただいております「金沢まちゲーション」さんで、この遊郭について取り上げられております。
春日神社はにしの郭を氏子と収め、崇敬者の皆様からは今も厚くご奉賛いただいておりますから、このお話は是非一読の価値ありです。
そしてなんと・・・・
石坂のお話が掲載されております
春日神社史に依りますと・・・・、
藩政期における石坂村は行政区画上、石川郡五ヵ庄に所属し、藩政期前期は押野組に、後期は米丸組に所属した。
寛文年間当時(1670年頃)に家高二件本百姓三人であったこの村は、相対請地化の進行により武士・庶民・社寺などが屋敷社殿を構え、文化八年(1811年)には総件数三百六十件とまで成長した。
文政三年(1820年)には藩当局より遊郭「石坂新地」の設置が許可され、この後石坂千件と俗称されるまで繁栄を極める。
とあります。
石坂の村は、加賀藩の根城から南(京都側)にあり、北国街道の存在とも相まって発展に至る立地条件はとても良かったのでしょう。
もちろん、郭としての闇の部分は無かったわけではありませんが、一町四方を塀で囲みみだりに出入りすることや武士僧侶の入廊を禁じ、藩での規律の下運営されていたとされております。
また、この郭の中で生活を送る女性においても神社の存在は欠かせないものであった為、西の郭の中には前田藩主の祖とされる菅原道真を祀った菅原神社が鎮座するに至っております。(この菅原神社は、昭和十九年頃に戦火から人々を守る為の家屋の間引きにあい、春日神社へと合祀されることとなります。)
藩政期から昭和前期に至るまで、栄華・文化・芸術の極みを持つも社会の昏い部分をも併せ持っていたこの石坂の地も、昭和三十一年の売春禁止法の公布により石坂遊園の紅灯が潰えたとされております。
こういった施設は、一般的に目を背けたくなるものですが、その日に口にする食事すらままならなかった時代を生きた人々の目線からは正道として映っていました。
我が子を食べさせることが出来ない親が、どんな想いで郭への扉を叩いたのか。
現代にも残る建物に施された装飾や造りからは、当時お目当てであったアイドルを応援する殿方らの痕跡も垣間見えます。
犀川以南を広く奉蔡してきた春日神社と田中家は、後藤文書が示す通り人々の心の拠り所として長く西の郭に生きる人々の平和と安全・繁栄を祈願して参りました。
今では人の気配も少なくなってしまった場所ですが、往年の栄華が端々に残っていることも確かですので、正にDEEPな場所として見ていただくことも面白いかもしれません。
色町の歴史を見た後には、春日神社でお参りをして帰路についていただくことをおすすめしまして、「ディープな街 石坂 建築めぐり」の記事紹介とさせていただきます。
今の石坂を、写真で詳しく紹介されていらっしゃいますので、金沢まちゲーションさんのホームページで見てみて下さい!
金沢まちゲーション さんより
禰宜が撮影したにし茶屋街
綺麗に整備されたお茶やさん街もあります。
有名なひがし茶屋街とは全く違う味わいが見られます。
そして、甘納豆美味しいので、お土産におすすめです。
ちなみに、芸妓さんの登録数はひがし茶屋さんを上回りますので、芸事の根幹の集まっている場所として、そして芸事を修める者であっても日常は平和に送る場所と実感できる観光地として、観光地では無い観光地をお楽しみ下さい。
石坂台の歴史
禰宜として、現在資料が残る範囲で石坂台の歴史を纏めました。