春日神社及び春日神社十社会の各神社は人的被害無し

発災当日、境内にはもちろん多くのご参拝の方々がいらっしゃいました。

当方は春日神社拝殿に居りましたが、照明が大きく揺れるも昭和56年に改められたこの拝殿がどうにかなるとは全く考えておりませんでしたし、建物から飛び出して落ちてきた瓦に当たる方が危ないと思っておりました。
想定通り、現建築物で最も強固である建物でしたので、御神酒の酒瓶一本も倒れること無く難を乗り切りました。

しかし、揺れている真っ最中に社務所を振り替えると、子供達がキャアキャア叫んで踞っておりまして。
この社務所は既に築100年を超え倒壊の危険有りと、数年前から改築事業が進められている建造物です。
何故そこに居る、逃げてくれ、と、咄嗟に駆け寄っていました。

揺れが収まる頃、外に出る様促し、拝殿に戻ります。

拝殿から境内を見回すと、景色が大きく変容していることもありませんでした。
誰か助けを呼ぶ様な声も聞こえませんでした。
しかし、振り替えれば、もう少し出来る事があったようにも思います。

それでも、一部燈籠などは損壊しましたが、人的被害は無かったのです。

 

兼務社の状況を見て回る

直後から情報収集のためテレビなどで現状を確認し、先代宮司はご神体は大丈夫かと心配しておりました。

人的被害が無いことが確認できて以降、物的損害を見て回り、社務所の柱がえらいひしゃげてるなあと感じながら春日神社内には大事無いことを認め、お参りに見えられる方は少しずついらっしゃっていましたので巫女さんや神職さんには18時前後で帰っていただきました。
例年通りであれば、近隣のお店が終わってからのお参りもありますので21時頃まで対応するのですが、今年は少し早めに門を閉じ。
さて、兼務社はどうだと車を出すことになります。

 

暗い中、各神社を巡ると、やはり損壊の認められるお宮がいくつかあります。
お参りの方がいらっしゃれば怪我どころでは済まなかったであろう場所もいくつかあり、しかしほぼ全ての神社は発災当時氏子総代さんが詰めていらっしゃる時間でして、特段の緊急連絡も無かったわけですから皆無事であると考えておりました。(総代さん方も、不要な連絡は必要無しとして、急いで連絡する事態は無かったようです。)
JR北陸本線の一部では電車が駅に停車し動けなくなっていることから一部遮断機が上がらなくなっていたりしつつ、懐中電灯片手に全てのお社を確認して帰りました。

 

結果としては、余震を繰り返すうちに、最大の被害となったのはとあるお社の手水舎の損壊でありました。

 

ひと月を終えて

毎年そうですが、お正月期間中まともに意識を戻すのは大体25日を過ぎた頃。
それまではもうずっと神社の社務のことばかりで、目の前に来る仕事をどうやってこなしていくかばかり考えてます。
家族との時間も確保しなければなりませんから、夫婦2人で居るときよりもやらなければならないことが二倍以上になっているイメージです。
妻がかなりの部分手伝ってくれますし子供達のことを一手に引き受けてくれているので、一般的なお父さんよりも楽はさせてもらっていますけれども。
寝たのか起きたのか分からないで過ぎる一月です。

そのひと月なのに。

被災地のことばかり気になって仕方がありませんでした。

家族一緒にお参りされている姿を覚えている、あの方々はどうなんだろうか。
いつも海鮮を山ほど送ってきてくれお供えしてくれているあの人は。
家族で行ったあの場所は。
水族館は。

家族平和で居ることが、どれほど幸せなことなのかと、1日に何度も思い知らされました。

見知った方が被災された話を聞きました。
ご家族を亡くされた方の話を聞きました。
お社が倒壊した宮司さんの話を聞きました。
地元神社のお祀りを案じる声は複数から聞こえます。

 

私が成さねばならぬ事は一体何なんだろうか、と。

 

実は、1月1日の夜には、私は一つ意志を固めておりました。

 

「今までのお祀りを、変わらずご奉仕し続けよう。」

 

1月1日午後4時10分以降も、お参りの方はいらっしゃいました。
流石に前年の10分の1ぐらいでしたが。
翌日以降も、人数は少ないながら、お参りされる方はいらっしゃいました。

決定的だったのは、4日の仕事始めの日でした。

まるで口癖の様になっていた、「1月1日、大変でしたね。」と、とある会社の社員さんに話しかけましたところ、

「すぐに激甚被災地へ祖母を迎えに行ってきました。」と。

いつもスーツで髪型もしっかりしていらっしゃる方ですが、思い詰めた表情で仰いました。

被災地を見てきたその方は、
「私は後方支援しか出来ません。」と。
しかし、その方の会社が十二分に機能しなければ、復興の道筋が出来ません。
それも分かった上で、後方支援しか出来ないご自分を悔いていたのだと思います。
さらに、ご自分の職責を放り投げず従事し続けることの役目を理解していらっしゃったことでしょう。
『あの被災地』を見てきたからこそ。

 

今の平和を守ることに、意義があるのだ、と。

今は、平和や幸せの在り方が分からなくなっている方が多く居るならば、幸せになりましょう、と。平和で在りましょう、と。

これまでお祭りしてきたことそのものを変わらずに続けることが大切なのだ、と。

 

また、自衛隊の知り合いも数人いらっしゃいますが、総じて一番大変なときに(作戦期間中に)内容を語ることはありません。
終了後に、「石川県に赴任していたとある隊員が、実家の大分に帰省していた際にこの震災が起き、車を一晩走らせて隊へ戻って任務に従事した」、という報告が動画サイトなどで見られます。
被災した孤立集落に行く際に道が無くて大変だった、と言う話がありますが、道が無いというのは崖崩れや地割れで物理的に寸断された地域です。そこに、1人40キロぐらいの物資を担いで、毎日行くんですね。
即応自衛官の方々のご活躍も広く知られることとなりましたし。
本当に、有難いことです。
プロなら出来る事が、まだまだ確実にありますし、プロの邪魔になることがあってはならないでしょう。

(文中の表現や登場人物は多少脚色しております。ご本人の言動ではありません。)

 

ということで

春日神社のお祭りは、私が宮司としてご奉仕している間は相変わらずお祭りを続けて行きます。

おそらくこれは、今までの1300年もそうでしたし、これからの1300年も変わらないことでしょう。

平和と安寧を祈願感謝する春日神社へ、どうぞお参り下さいませ。

皆様のお参りされるお姿こそ、個人家族に始まり、地域から国家までの安泰を表してくれていますから。

ただただ、平和隆盛を祈ります。

 

 

但し、社務所はかなりの老朽化且つ震災後測定しましたところ新築住宅の10倍ほど(30/1000以上)柱が傾いており、もし倒壊となった場合ご社殿への甚大な影響も避けられないことから、出来る限りすぐに取り壊し改築させていただきます。

築100年を超えておりますから、次の震度5には、恐らく耐えられないでしょうからね・・・。

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